日々感じたことを書いています。

5世紀の百済

ソウルの南にある二聖山城(이성산성 イソンサンソン)という遺跡が、どこに属していたかに関して二説あって、新羅説と百済説がある。発掘調査からは百済に関連するものがなく新羅説が有力なようだと書いた。

新潟大学で、高麗・朝鮮時代史を専門とする方のブログの古蹟写真帳というブログに二聖山城に関する記事があった。それによると、二聖山城にある「案内板」によると、「学者によれば、百済の漢城時代の山城に比定されている」と書いてあるという。更に、  

漢江流域は、三国時代には、475年まで百済が専有しており、歴史学者は、春宮洞〔二聖山城のある洞〕が属している河南市一帯を百済初期の都邑地と推定している。

ということらしい。これから、上に書いたこととは逆に、二聖山城は百済の遺跡と考える方が学者間では主流のようだ。 

河南市は漢江沿いの町で、川沿いには三国時代遺跡等がある。この遺跡のことは、Konestの二聖山城の地図を見ていて見つけた。 この地図には二聖山城の場所も書いてある。住所は、京畿道 河南市 春宮洞 山36だと書いてあった。これまで、南漢山城の敷地にあったものと思っていたが、そうではなく、隣の山の上にあった。

福岡の周りには、白村江の戦い以降に百済の影が濃い。北部九州に百済そのものが移動してきたかのごとくである。扶余とは5世紀に中国東北にあった国の名称だが、プヨの意味は鹿の意味である。扶余の人々が、もともとは更に北から来たことから考えると、プヨの意味は鹿でなくトナカイであったのだろう。ソリを引く移動に必要な動物で、神聖化されていったと推測される。 その北の民扶余が南下し百済を作り、ついには九州へ辿り着いた。 その途中で、彼らが一時都邑を築いていた二聖山城や春宮洞を、次回韓国へ行く機会があればぜひとも歩いてみたいと思う。
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